りべるたん5年の総括、我々は何に結集し得るのか

文責 りべるたん2代4代代表 菅谷圭祐

文責 りべるたん2代4代代表 菅谷圭祐



目次(スマホ全盛の時代に長めの文章なので、目的別の読むのオススメリストです。気軽に時間つぶしにどうぞ)

1 はじめに
→簡単な導入を書いてます。何も知らない人にオススメ
2 大まかなシェアハウスの分類とりべるたんの理念と構造
→りべるたんについての説明です。少しゴリッとしててややこしいです。りべるたんの運営方法を知りたい人にオススメ。
3 りべるたん運営主体の変遷と要因
・前期りべるたん運営(学生運動〜豊島区議会議員選挙落選)
・後期りべるたん運営(りべるたん事業方針〜現在)
→りべるたん人情劇で心震わせたい人にオススメ。
4 5年間の総括と展望
→総括です。細かい説明はどうでもいいから、結論、とにかく結論を知りたい人にオススメ。
5 結後と個人総括
→今後の方針案と個人総括です。細かいことも結論もどうでもいいから、今後どうするのか知りたい人にオススメ。


1 はじめに

共同運営実験スペースりべるたんは、本年7月を持って創設5年を迎える。非営利シェアハウス・シェアスペースは同世代人の間ではひとつのオルタナティブブームであり、全国津々浦々でその試みが展開されている。しかし、悲しいことになかなか困難な業界でありクローズしてしまう同業者も多い。そのため、運営歴5年ともなるとなかなかの長寿となる。
りべるたん運営5年の間には、様々な階層の多種多様な人が40名以上居住し、3度の不当逮捕・家宅捜索もあった。また、畳み掛ける正当逮捕、財政破綻危機、運営内部の意外に難しい人間関係などもあった。要はりべるたんは決して順風満帆ではなく、数多くの危機を乗り越えて来た上で、今も維持されている。

本総括において5年間のりべるたんの試みを振り返るが、これは俯瞰してみた時に我々(りべるたん創設及び創設初期から関わった面々)が徐々に弱体化していき、少しずつりべるたんからあるいはりべるたん的なものから離れていった歴史になる。我々は黎明期において「ビルの一室から始まり、現在は一軒家、そしてその次は店舗付き住居、その次は丸々ビル一個、その次は街全部をりべるたんにしよう」(りべるたんHP、2013年2月7日「りべるたんとは?」)と情熱に燃えていた。この情熱は当時、全運営者が内に秘めていたもののように回顧する。しかし、現状においてそのような情熱は乏しい。りべるたんは、比較的志向が同じ人間の集団で運営されるスペースである。先にシェアハウスの移り変わりが激しいと記したが、そのりべるたんにおいてすら、たったの5年の年月に耐えるのがやっとという非営利シェアハウスの困難さの根底にあるものを本総括からすくいだしたい。
とはいえ本総括では悲観的な結論のみを抽出するのではなく、現状と課題をよく認識することによって今後も末永くりべるたん運動が、またりべるたん的な試みがさらに発展した形で波及していくことを目指す。我々はかなり身体を張って、この5年間りべるたんという試みを継続してきた。5年間の数多くの失敗といくらかの手応えの中には、5年10年100年と運営していくためのヒント、より良い新たな住まい方働き方生き方の実現の可能性が含まれているのではないかと信じている。

神楽坂にあった第一期りべるたん

神楽坂にあった第一期りべるたん



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2 大まかなシェアハウスの分類とりべるたんの理念と構造

はじめにりべるたんとはどのようなスペースで、どのような理念を持ち、どのように運営しているのかを説明する。りべるたんは大まかな分類においてシェアハウスに属する。シェアハウスは企業が「経営」する営利を最たる目的とするもの、有志が「運営」する営利以外を最たる目的とするものの2つに大きくはわかれる。りべるたんは後者であり、つまびらかにするとりべるたんを運営したからといって誰も一銭の得にもならない(2017年度より代表に3000円もしくは5000円の負担軽減費を払う制度を導入)。

りべるたんは
1 もっと豊かに生きていける場を“自分たち”で作ろうという「自主生存」
2 社会における混ぜるな危険と思われる交流を推進する「異文化交流」
3 自主的に生存しようとする過程あるいは異文化交流から生まれる自由を求める声、新たな文化の創出の発信を全面的に支援する「文化発信」

を3大理念としており(りべるたんの綱領より)、この3点を最たる目的としている。

りべるたん内にはフリースペースがあり、当初はりべるたん全体が365日開放の自由空間であったが、現状においては場所の制限、時間の制限が設けられている。いずれの時期においても、フリースペースの賑わいと、ここから新たに生まれる活動や関係性が、理念の達成を図るひとつの指標となる。
とはいっても、理念を掲げて場所を設置しただけではその目的は達成されない。勝手に多種多様な人が集まって勝手に異文化交流をして、勝手に食物を作ったり仕事を起こしたりなどの自主生存して、勝手にそれを外部に向けて文化発信するなんていうことはそうそう起こらない。営利シェアハウスだって強固なセキュリティやグローバルな交流、ペット可などの売り文句で営利を達成しようとしている。りべるたんも同様に理念を達成するためのある程度の方向性を内在した装置、『結集軸』の設置を試みる。『結集軸』は強制ではないものの、りべるたんの色をある程度定め、色に近い人や賛同する人が多く訪れるようになる。そして本総括では、『結集軸』が大きな焦点となる。特に我々が青春の学生時代を通り過ぎた後は『結集軸』設置のための試行錯誤が顕著になる。理念を達成するための『結集軸』、これを据えようとする実験を延々と繰り返している。

りべるたんは大きくは下記の4層によって構成されている。

・月に一度の運営者会議・半期に一度の総会での議決権を持つ運営者(毎月3000円納入)
・住んでいてかつ運営者会議・総会での議決権を持つ居住運営者(毎月20000円納入)
・住んでいるが運営者会議・総会での議決権を持たない居住者(毎月20000円納入)
・頻繁に遊びに来る人、常連、ご近所さん

この4層が微妙な力関係の変化を繰り返しながら運営されている。
上述の「結集軸」を含めたりべるたんの運営を決めるのは月に一度の運営者会議及び半期に一度の総会であるが、議決権を持たないものの日常的にりべるたんに関与し、現場を知っている居住者や常連・ご近所さんが強い影響力を発揮するときもある。概ねりべるたんが賑わっているときは下からの決定が強い影響力を持つ。上手く行かなくなった場合・問題が発生した場合の対処は上からのテコ入れを運営者がするという傾向がある。

月に一度の運営者会議。この会議にてりべるたんの短中長期的な物事や方針を話し合います。

月に一度の運営者会議。この会議にてりべるたんの短中長期的な物事や方針を話し合います。




3 りべるたん運営主体の変遷と要因

過去約5年のりべるたんは6つの時期にわけることができ、少し長くなるが順に説明していく。

・前期りべるたん運営(学生運動〜豊島区議会議員選挙落選)
①学生運動の拠点時代(2012年7月〜2014年3月)
りべるたんは、前年2011年まで就活ぶっこわせデモ(2011年11月23日)や新宿ネイキッドロフトにおいて開催されたトークイベント「東日本学生運動復興構想会議〜崩壊寸前の日本、暴動か死か〜」(2011年11月20日)等々の学生運動、学生運動的な活動を展開していたゆとり全共闘が主な母体となっている。まだ、SASPLやSEALsが登場以前で、我々にも幾分かのスポットライトがあたっていた。当時、首都圏10大学以上の学生が集まるなど、学生の運動として一定の求心力があった。しかし原発事故の翌年、2012年には早くも活動に陰りが見え始める。このことにはいくつか理由があっただろうが、当時私たちは拠点の喪失を主たる理由と考えた。2011年までは、旧菅谷ハウスが拠点として機能していたが、物件の契約満期にあたり、自転車に荷物を乗せて遊牧する家なし生活を開始していた。私のエキセントリック衝動により家がなくなったことで同時に、学生運動の拠点も喪失してしまっていた。
かくして、りべるたん発足プロジェクトは2011年までの学生運動の流れを組み、喪失した拠点を再度作るということを強い動機としてスタートした。もちろん我々は、りべるたんを学生運動家だけの場所でなく、多種多様な人々に集って欲しいという願いを持っていたし、それはかなりの程度実現したと言っていい。しかし、りべるたん発足から約2年半の期間は学生運動の影響が非常に大きい。
法大解放総決起集会(2012年10月19日)のために、りべるたんに集い何度も会議を重ね、外に車が止まっている度に「あれは、公安なのではないか」と革命的警戒心を発揮した。全国組織を立ち上げていた「教育の機会均等を!デモ~学費・奨学金は問題だらけ~」(2013年7月15日)の際には日本の津々浦々から約20名の学生・若者がりべるたんを東京滞在における拠点とした。りべるたん初の逮捕・家宅捜索となった組対法弾圧(2013年8月30日〜2014年3月26日)においても、長期の弾圧となったが多くの支援の元で当該を支え不起訴を勝ち取った。2012年7月〜2014年3月の間にりべるたんの運営に関わる者、りべるたんを訪れる人の多くは社会問題に興味のある学生・若者、過去に学生運動をしていたOBが大きな割合を占めていた。

初弾圧のすぐ後、テンション高くなって超ノリノリ。

初弾圧のすぐ後、テンション高くなって超ノリノリ。



②モラトリアムサラダボウル豊島区議会議員選挙時代(2014年3月〜2015年4月)
りべるたん発足の大きな動機のひとつであった学生運動の拠点は、一定程度達成された。
しかし、我々は少しずつ年を重ね、中心メンバーが徐々に大学を卒業し始める。当然のことであるが、運営員の大半が学生でなくなることによって学生運動の拠点ではなくなっていく。運営者内である程度共通していた問題意識や一緒にいるべき理由がなくなり始める。学生運動の拠点の終焉、その区切りをここでは組対法弾圧の終わりの2014年3月とする。
はじめにりべるたん運動はこのままでは行き詰まるのではないかという意識を持ち、変革のアクションを起こそうとしたのが増井・宮内・菅谷等であり、豊島区議会議員選挙出馬方針が浮上する。2014年3月に開催されたりべるたん2013年度後期総会において中長期的な視点として「豊島区議選挙にでよう」(原文ママ)という提起において初めて全体の場で今後のりべるたん運営の問題意識が共有される。当時の議事録から一部抜粋する。

中長期的な視点
・豊島区議選挙にでよう
吉岡「誰が出るの?」
菅谷「事前調査だと僕が出ることになるかと思います。」
鍋子「りべるたんはボトムアップの組織としてあるはずで、トップダウンの選挙には疑問がある。菅谷さんが選挙活動ばかりでりべるたんの活動をしなくなるのは本末転倒。また、運動の継続性のみを問題にするなら、空き家を対象にしたNPO活動という方がいいのではないか。何にしても、どういう理念を共有するための選挙なのかをはっきりしないと。生活困窮者についても、政策で救済するのか、運動で支えるのか。」
深谷「議員が一人いても政策に影響はない。選挙は、政策論議のためではなく、支援を拡大するためのものとしてある。自分は基本的にはボトムアップ式の運動を支持している。しかし、ボトムアップの結果として選挙で勝利することはありえる。それだけのこと。議会に入って、議会で世の中変えてやろうという思いが少しでもあるのだったら、やめたほうがいい。」
鍋子「人をつなげておくために選挙をやるというのは納得できない。」
エリカ「選挙をりべるたんでやるというのには違和感がある。選挙となれば、一つの政策をめぐって、方針を決めることになる。そうすれば、りべるたんとしての雑多なまとまりがなくなってしまうのではないか。」
菅谷「りべるたんという文脈をなしに、出ればいいのではないか。でも、次の選挙を逃せば五年後になる。それは遅いのではないかという風にも思う。」

増井「僕は賛成。吉田一郎さんが埼玉市議になっている。大宮の市議だったのだけど、大宮市の独立を掲げて、市議会から除名されている人。ラジカルな事を言えば波及力は確実に生まれる。」
小太郎「ラジカルさとは何のこと。」
増井「反貧困、そのとりでとしてのりべるたん。」
鍋子「なぜ増井がでないの?」
増井「僕は向いていない。菅谷の方が向いていると思う。本人もやる気だと聞いている。」
鍋子「増井くんは生活基盤もある。安全な立場から、たきつけるのは納得できない。それに、生活困窮者とワーキングプアといわれても、りべるたんがそんな活動をしたことがあるのか。」
増井「大きくはそういう運動だと理解している。居場所作りという意味でも。」
小太郎「個人で出るのは誰も反対していない。りべるたんの運動としてそれを目指すという風にはならないのではないだろうか。」

この議事録の通り、運営は大きく意見が分かれる。個人的な感覚としては、学生時代になかったレベルの意見の齟齬がこのときに生まれ、そして以降はその齟齬が以降埋まらないままりべるたんは今日まで運営されている。
学生はわかりやすい。明らかに望外に高く過去と比べても異常に高騰している学費、労働の入り口にあたる就職活動は自殺する学生までいる。文部科学省の平成27年度学校基本調査によると大学進学率は54.6%である。大学という場所は同じ世代の半数以上が同じ受難を迎える。しかし、大学以降はその苦しみが細分化されていく。労働運動と言っても、それぞれの職場や職種で給料や待遇は違う。あるいは正社員か非正規か個人事業かでも違う。また働いていない働けない層もある。学生時代とは違い、それぞれフェーズが違った生活をするようになる。
上述のりべるたん総会においての結論は
・豊島区議会議員選挙は菅谷の個人活動となりりべるたん全体として取り組む・何かしらの方針を出すということはない。
・りべるたん運営はこれまでと大きな変化はない(現状維持)
という二点が結論になる。

また、齟齬が生じ始めるのと同時期にりべるたんの主体となる層も変化が生じはじめる。これまでの流れを引き継ぐ学生運動・活動家はわずかに減少、新たに芸術家、ムスリム、DJ、元ヤクザ、ラッパー、ヒモ、ニート、ヤク中、留学生等々が現れる。反体制・オルタナティブ・アングラ・イリーガルがミックスされた集団がりべるたんの主体となっていく。この頃に、早稲田カウンター弾圧という当時大学1年生だったりべるたん運営者がヘイトデモカウンターで逮捕されるという事件があり、この救援ではラップが歌われたり、もうすぐ家宅捜索があるというのに連夜のように酔っぱらいが寝ていたり、かなり異質な異業種交流感があった。
豊島区議会議員選挙は、りべるたんという名前は全面には出さないものの、反体制・オルタナティブ・アングラ・イリーガルな人間を主たる支持母体となって、住みやすい・住める豊島区を含んだいくつかの主張をかなり真面目に訴える。菅谷の選挙が終わる2015年4月までは、この結集軸が一定は機能する。

保釈決定の報を聞き、集う人々。このあと、ストリートファイト、流血、嘔吐、合唱などさまざまに喜びを表現。

保釈決定の報を聞き、集う人々。このあと、ストリートファイト、流血、嘔吐、合唱などさまざまに喜びを表現。




③りべるたん財政破綻危機時代(2015年4月〜2015年8月)
菅谷の選挙は2015年4月24日、当選ライン1500票のところを972票獲得という惨敗でも惜敗でもないコメントのし難い形で敗戦を迎える。敗戦から間もなく、反体制・オルタナティブ・アングラ・イリーガル集団の瓦解が始まる。そのひとつの遠因となったのが相次ぐ正当逮捕である。政治犯でも不当逮捕でもない、フォローの難しい逮捕が相次ぐ。学生運動による不当逮捕もあわせると、2014年3月〜2015年4月の間に実に約80日間も誰かが獄中にいてその対応に追われている。面会に通い、逮捕者当該周辺の人間関係をフォローし、弁護士さんと相談し、目白署からの参考人呼び出しをガン無視したりする中で、一体何のために誰のために、こんな事をりべるたんをやっているのか段々わからなくなってくる。

また菅谷落選以降、正当逮捕勢以外も少しずつりべるたんから足が遠のいていく。人種のサラダボウル時代は、理念的なつながりが薄い。お祭りの終わりである。その動員と結集は次第に解消されていく。
2015年4月以降、りべるたんは氷河期情勢を迎える。2015年2月には計10人が居住していたが5月には3人にまで減少する。栄枯盛衰・盛者必滅、りべるたん史上過去最少居住人数情勢が到来する。居住者の激減により毎月の運営費が減り、そのまま財税危機へとつながる。居住者3人状態は7月末になっても改善されず、7月30日の運営者会議において「次回総会までに運営者4人or居住者プラス1人」を達成できなかったら閉鎖という提起が可決されている。追いつめられたかに見えたりべるたん。ここからゴキブリのようなたくましい生命力を発揮する。怒涛の営業攻勢と幸運によって居住者が1名増えて4名になり、安定運営状態に回復する。
しかし、りべるたん運営はこの財政破綻危機によって、このままではまずいという認識を強固にする。学生運動の時代が終り、選挙は敗戦、人は離散していく、結集の軸がない。我々は何の旗のもとに集えるのか、今後のりべるたん運営をめぐるイデオロギー闘争がはじまる。

このころ良い写真残ってないので、りべるたん畑で取れたお芋をどうぞ。

このころ良い写真残ってないので、りべるたん畑で取れたお芋をどうぞ。



・後期りべるたん運営(りべるたん事業方針〜現在)
④自主生存VS異文化交流! イデ闘時代(2015年8月〜11月)
イデオロギー闘争、通称イデ闘は財政破綻危機を何とか乗り切った当月にあたる8月の運営者会議からはじまる。この会議において今後の方針が話し合われ、そして意見が割れる。この時出された方針は大きく下記の2つである。議事録からそのまま抜き出す。

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りべるたんの方向性。今後は「自主生存」「異文化交流」のどちらに力を入れるのか。
広くてもっと色んな人を呼べるような交流空間が欲しい。 増井
共産趣味的な交流はもういい。仕事を作っていくべきだ。 宮内
りべるたんを拡大・発展していくという前提で上記の方向性の議論がありました。
続きは総会??
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先の選挙を積極的に支持していた増井・宮内・菅谷の三者においても意見の違いが生まれる(具体的には異文化交流派→増井 自主生存派→宮内、菅谷)。個人的には豊島区区議会議員選挙の落選をポジティブに総括しているが、りべるたん運動・豊島区コミューン運動としては、やはり選挙の敗北はかなり大きい。運営方針はまとまらず、毎月の運営者会議で方針をまとめるための議論が繰り返される。
この議論は9月の前期総会で何かしらの決定がされるはずであったが、この年にりべるたん運営者のひとりが安保法案反対デモで不当逮捕される。りべるたん3年連続3度目の真夏の不当逮捕&家宅捜索により、りべるたんずVS公安警察の甲子園が開幕となり延期となる。この間に上記で事業路線を掲げていた宮内君がリサイクルショップを開店。賛同していた菅谷も参加し、あれよあれよと副店長になる。
その他、いくつかの事情も重なりこの年のりべるたん前期総会は11月に開催される。この時に自主生存路線として菅谷が店舗を借りて食堂をみんなで運営する「りべるたん食堂の建設」・宮内君が土曜日だけでもりべるたんのために労働する「革命的土曜労働」方針を提起する。それぞれ反対意見を中心に議事録にまとめられている。いくつか抜粋する。

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→菅谷提起「食堂」
普段の生活で忙しいなかりべるたんのために働けない。
食堂には限らなくとも、事業を起こさないといけない(井田)。
結集軸がないとみんなバラバラになる、特に非学生。菅谷の問題意識。
全員を半ば強制的にでも関わらせなければ結集軸にはならないのではないか。→しかしどうしても時間がない人、生活が苦しい人もいる。また東京在住でない人はどう関わるのか。
→関わり方の度合いが人によって違うのはしようがないが、それを個人任せにしてきた結果が現状の共同意識と参加意識の低さ。

宮内提起「革命的土曜労働」
お金は払えるが仕事に参加できない人を運営者から排除しないように。
イベントで稼ぐという路線は無理がある。別の方法で収入を得ないと。
運営者増やす、居住者増やすよう努力するのは今までどおり。
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この総会の話し合いは結構おもしろい。上述した2013年2月段階における「現在は一軒家、そしてその次は店舗付き住居、その次は丸々ビル一個、その次は街全部をりべるたんにしよう」という情熱は相当弱まっているし、もはやそのような意志を感じることはほぼできない。「普段の生活で忙しいなかりべるたんのために働けない。」とあるように、もはやりべるたんは生活の外にあるものとなっている。大多数のりべるたん運営者の日常には明らかな変化が生じており、空間はあれどその中身は設立当初にあったものとは大幅に変わっている。
この総会において菅谷の食堂建設案は否決、革命的土曜労働案は可決となる。正直に言って、自主生存路線であった人間は可決されたことに非常に驚く。総会前はもはやりべるたんはここまでか、万事休すと半ば忠臣蔵の気分であった。それがまさかの可決である。驚きももの木20世紀である。運営者全員とはいかないまでも、半ば強制ながら1週間の内1日はりべるたんのための時間を確保する。以降、りべるたんでは土曜日にみんなで集まって働きながら事業を展開を模索する日々が続く。

この頃の良い写真を見つけられなかったので開墾風景をどうぞ。

この頃の良い写真を見つけられなかったので開墾風景をどうぞ。



⑤事業方針時代(2015年11月〜2016年6月)
毎週土曜日にりべるたんに集まり、りべるたんのために労働をする日々がはじまる。この期間、我々は内職、行商、テープ起こしなどの仕事を運営員有志で協力して実施する。また、行商スタートアップ講座というイベントを弁護士さん、シェアハウス同業者で当時八王子で行商をしていた仲間も呼んでイベントを開く。

しかし、この事業方針は頓挫する。

この理由は大きく3つあり、
①主体となる菅谷のりべるたんに割ける体力・時間の減少
→宮内君と始めたリサイクルショップが成功し、その仕事に割く時間が予想以上に大きなものになり、りべるたんの実務を担う時間が減少した。
②主体となる菅谷のノウハウの不足
→土曜労働というプロジェクトをまわすためのノウハウが不足していた。
③りべるたんがそもそも事業をやるための集団ではない
→りべるたんは民主主義プロセスを非常に重視し、また上意下達の体制でない。同時進行していたリサイクルショップは同期間で軽トラックを買い、二号店を出し、現場における指示系統が完成した。りべるたんでは、仕入れをどうするか、仕事をどうやって取ってくるか、誰が何をどのような役職でやるのか、こういった事を話し合いによって決定できなかった(最もこのことはりべるたんの体制だけでなく、上記2つの理由も大きな要因としてある)。

事業方針はなかなか前に進まず求心力は落ちた。暗礁に乗りかけたころ、なんとりべるたん運営はそれまでの方針の話し合いとは全く別のところから安定期に入る。りべるたんは居住空間、シェアハウスとして栄えはじめる。

揉めに揉めやっと始動した事業方針であるが、頓挫してしまう。

揉めに揉めやっと始動した事業方針であるが、頓挫してしまう。




⑥シェアハウス大家業方針、社員寮りべるたん時代(2016年6月〜)
2016年6月、運営者会議によってシェアハウス大家業方針に転換される。居住者3名の暗黒期を乗り越えたあと、居住者は増え始める。ベッド(全5つ)が満床となり、ベッドなし雑魚寝割引という提起が可決されるほどにりべるたん居住者が増加した。そして以降現在に至るまで増加を続ける。モラトリアムサラダボウル時代が一過し荒れに荒れ運営維持が危ぶまれていたのが嘘のようである。居住者の増加と安定により、りべるたんの運営は財政面においては安定期に入る。
住居としての生活の場としてのりべるたんを実現した要因は2つある。その一つ目が「りべるたん居住環境の向上」である。りべるたん運営において、我々は声を荒げ日々心に言論の刃を刺す議論を続けてきた。その影で、りべるたん居住者たちは居住環境を整え、家事のルールやゴミ出し当番などが作られ、生活における秩序が少しずつ少しずつ育まれていた。
私は家庭を顧みないタイプで、どんなところでも大体生息できるので、この動きに気づくのもかなり遅かったし、またさほど重要視していなかった。実際に、りべるたんが出来た当初は居住という概念はほぼなく誰がどこで寝てもいいし、私物管理も適当、貴重品は自衛しろというジェラシックパークのロストワールドだった。創設時から住んでいる居住の長がそんな状態であるが、そんな中でも居住文化は紡がれてきた。この功績には、東北大学日蹴寮出身の深谷君、京都大学熊野寮出身の富山君、独自の経験を持つ森君、森君の思想を継承した四元さんの4名の存在が大きい。敬意を込めて、あえて4名の名前を上げさせてもらいたい。学生自治寮出身の前者2名によってりべるたんという場所に住むためのコミュニケーション方法や素地が注入され、森君四元さんがそれを強化し、そしてインフラ面の整備が行われた。

「りべるたん居住環境の向上」に加え、シェアハウス大家業方針は「外部の事業による補完」で成り立つ。これまで学生運動時代・モラトリアムサラダボウル時代でもりべるたんが満床となることはあった。しかし、それは中長期的な居住を期待できるものではなかったし、実際にいずれも崩れている。しかし、2016年6月以降のシェアハウス大家方針においては当面は崩れることなく拡大可能性があるとして方針として採用されている。その根拠として外部の事業がある。
現在、りべるたんから通勤圏内の2つの職場と関係を持つことが出来ている。2017年1月20日現在、りべるたん居住者9名のうち7名までがりべるたん周辺にある2つの職場のいずれかに過去務めていたか、現在も務めている。りべるたんを頼りに来る人は、職に困っている人が多く、この2つのうちいずれかを紹介して働いてもらうというパターンが生まれている。シェアハウス大家業を安定させているものは、りべるたんの擬似社員寮化である。仕事が人を集め住まわせ、運営を安定させている。りべるたん事業方針は失敗に終わったが、ある面において事業方針は成就した。仕事という結集軸を外部との関係によって補完させている。
「りべるたん居住環境の向上」と「擬似社員寮化」、この2つによりシェアハウス大家業は形成されている。この体制は当面は盤石かもしれない。運営は安定といえば何ら問題はなさそうであるが、この方針においてはじめて向けられる視線が「居住者→りべるたん運営」と内から内という変化が生じている。これまで、学生運動、選挙、事業全てにおいて視線はりべるたんの外に向かうものであった。この方針においては、内へ内へ向かうものになる。居住という概念が荒廃していたジェラシックパークのロストワールド時代よりもよいはずなのに、全時代の中で今が最も住環境は整っているはずなのに居住環境に対する運営に対する要望は多い。また居住者間のトラブルがあげられることも多い(というかこれまでは要望やトラブルが運営まであげられること自体が珍しかった)。結成5年、りべるたん運営にはこれまでとは明らかな違いが生じている。

りべるたん居住環境、秩序生まれる。

りべるたん居住環境、秩序生まれる。



4 5年間の総括

以上のようにりべるたんは、

①学生運動の拠点時代(2012年7月〜2014年3月)
②モラトリアムサラダボウル豊島区議会議員選挙時代(2014年3月〜2015年4月)
③りべるたん財政破綻危機時代(2015年4月〜2015年8月)
④自主生存VS異文化交流! イデ闘時代(2015年8月〜11月)

ーーーーーーーーーーーー以降のりべるたんは365日24時間開放をやめ、土曜日のみなどの限定開放となる。ーーーーーーーーーーーー

⑤事業方針模索時代(2015年11月〜2016年6月)
⑥シェアハウス大家業、社員寮りべるたん時代(2016年6月〜)

と推移している。
大雑把にまとめると、りべるたんは学生運動ハウスとして賑わい、選挙運動ハウスを経て落選ハウスになり、財政破綻危機が訪れるが何とか乗りきり、事業を展開しようとするものの頓挫し、仕事を外部に頼った形での社員寮ハウスになったというのが、5年間の大まかな流れである。現在の社員寮りべるたんは維持するだけならば、りべるたん住民を雇ってくれている優しい団体がりべるたん住民の雇い止めや解雇がない限りはこれまでどの時代よりも安心安全な運営体制である。しかし、そのりべるたんは設立当初のそれとはかなり志向の違うものである。
断りを入れると、現状のりべるたんの批判をしたいわけでないし、今のりべるたんには今のりべるたんとしての良さがある。ここで確認したいのは、我々の変化である。りべるたんに関わる時間は私まで含めて全員が減少傾向にあり、間違いなく誰一人として増加はしていない。形而上的な言い方になるが、りべるたんの魂のようなものは少しずつ抜けていっている。そして最も大きな総括は、ここになる。もしも我々が「自主生存」「異文化交流」という理念を学生時代と同水準もしくはそれ以上に達成しようとするならば、一般的な価値観を相当程度に批判し打破する運動をりべるたん内で展開しなければ実現できなかった。

学費の高騰だ、就職難だといっても学生時代は、まごうことなきモラトリアムの期間であった。「もっと豊かに生きていける場を“自分たち”で作」れるのではないかという思いを抱けるし、その気にさえなれば社会の多種多様な人と比較的容易に混ぜるな危険の異文化交流が可能であった。しかし、大学以降の時間は現代の常識の中では、そうしなければならないとかそのようなことが可能だと思わせるような機会も少ない。正規雇用でも非正規雇用でも、一度レールに乗りさえすればルーティンをこなすことでそこそこの賃金は得られるし、そのお金で十分に商業資本が楽しさと将来の安定を提供してくれる。意見の違う明らかに不快な人と議論したり、社会の矛盾に目を向けて生活や思考を変える必要はない。りべるたん社員寮化は何も批判できたことではない。りべるたん居住者以外の運営者も、特に創設に近ければ近い時期から関わっている人ほど『かつてはそうでなかったのに』多かれ少なかれ多少の程度の差はあれ、そのような生活に変化している。

シェアハウスは物件を借りるまでが最高潮であり、特にモラトリアム終了以降は余暇活動のひとつの選択肢に収まる。物件を借りて以降、私たちは無批判に民主主義的プロセスを採用し、徐々にダイナミックなアクションから遠ざかっていき、年を重ねた。そして、改革を訴えた人も、現状維持を望んだ者もゆるやかに離散していった。恐らくだが、ここにりべるたんのみでなく多くの非営利シェアハウスにあてはまる限界がある。
様々な道の辿り方はあるだろうが「みんなの合意」「みんなの話し合い」「みんなの決定」を重視するとシェアハウスは箱の中での運動に落ち着くことになる。その箱の中での運動とは、月に何度かイベント・飲み会である。というかそれ以上のものには成り得ない。内部的で大きな収益も臨めない(=そこでは食っていけない)活動が推奨され、外部に訴える活動、大きな収益を臨めるかもしれない活動は集団として取り組むものではなく支援の薄い個人活動となる。
我々はもっと勝手に選挙に出ればいいし、事業をやりたければ100万円くらいぽんと借金すればいいだろうし、内から熱い情熱が湧き出たら長々と議論に時間を費やし結果熱が冷めてしまうことを待たずに行動に移せばいい。しかし、こういった外に向かう何かしらはシェアハウスでは容認され難い(色んな所で何度も述べているが、だからこそ渋家はすごいと思うし、他のシェアハウスとは一線を画している)。
社会にセーフティネット、中間集団は多いほうがいい。しかし、「もっと豊かに生きていける場を“自分たち”で作」ろうとか、「社会における混ぜるな危険と思われる交流を推進」しようというあたりを目標にすると、学生以降はなかなかに厳しくなってくる。今後のりべるたん運営において、この点の見極めと対処を慎重にしなければならない。


5 個人総括と結語

簡潔にりべるたん全体の総括の今後の方針案を述べると

・我々世代においては、これ以上の拡大は現状においては難しい。
・今後、我々世代が考えなければならないのはより良い状態での維持であり、意志を継ぐものが現れた場合の円滑な運営の継承である。
・我々世代において、拡大が難しくなってしまったこと、離散が進んだことは要総括であり、今後の運営の反省材料としてほしい。


個人総括としては、私はりべるたん自主生存派であり、この方向はまだ可能性があるのではないかと思っている。りべるたん運営の総括から

・小規模なオルタナティブにおいて、人数の増加及び成員全員に平等な権利の付与を手放しに歓迎して推進すべきではない。
・小規模のオルタナティブな試みは強大な民主主義国家的であるよりも、中小規模の会社的であるべきである。
・小規模なオルタナティブにおいて民主主義的合意形成は目的でない。目的は理念の達成である。


という3点が挙げられる。

我々は「ビルの一室から始まり、現在は一軒家、そしてその次は店舗付き住居、その次は丸々ビル一個、その次は街全部をりべるたんにしよう」という野望を5年前は抱いていたが、これは脆くも崩れ去った。私はそれをもっと早くに事実として受け止めるべきで、うら若きころに勢いで掲げた理想の延命措置のようなことをすべきでなかったかもしれない。そのことで、私は暴力性を帯びて他者を傷つけた事もあっただろうと、後悔と反省をしている。
人生60年だと仮定して、私は12分の1の時間を、20代の情熱的な時間を東池袋の怪しい一軒家での問答に費やしたことになる。まずは、我々がりべるたん創設当初に掲げていた野望は崩れたんだ、もはや実現不可能な野望なんだということを清く認めることである。有限な人生の残りの時間をこの認識を持った上でスタートさせることである。恐らくはそうした方が、りべるたんとしても、私としても、より有意義なものになるだろう。